「この仕事を長年やっていると、酔っぱらったお客さんに車内で吐かれたことは山ほどあります。正直、腹は立ちますよ。でも、ついつい飲みすぎてしまうことは誰だってあるわけですから、致し方ないとも思うんです」
個人タクシー運転手の古谷さん(65歳=仮名)は白髭の似合う穏やかな顔立ちで、こう語る。落ち着いた口調からは品性も感じるが、その品性は古谷さんのタクシーの内装にもあらわれている。
とくに座席には高級本革シートで、後部座席に座らせてもらったところ、座り心地の良さにただただ驚かされた。長時間の乗車であっても、腰が痛くなるなんてこともなさそうだ。
「安全運転は当然ながら、お客さんにちょっとした特別感を楽しんでもらいたいのです。費用はかかりますけどね。それでもお客さんが気持ちよさそうに座っていらっしゃると、それだけで運転手冥利につきます」
まさにタクシードライバーの鑑のような古谷さん。
そんなお金をかけた座席に吐かれても、「致し方ない」と言えるのは、古谷さんの人間が出来ているからに違いない。だが、古谷さんはこう反省する。
「一度だけ……絶対に言ってはいけない言葉で、怒鳴ってしまったことがあるんです」
それは数年前の夏のこと。いつものように深夜の銀座を流していると、明らかに酔っぱらっているカップルが手を上げたという。
「酔っているのは女性のほうでした。足取りはフラフラなのに男性の腕をしっかり掴んでいて、〝絶対に今夜は帰さない〟といった雰囲気でしたね(笑)。スーツ姿の男性は若干、困っている様子でした」
40代前半と思しき女性は胸元に花をあしらったような薄ピンクのブラウスに、黒のロングスカートだった。最初はどこかの企業にお勤めだと思ったが、会話を聞いていると、二人は学校の先生であることがわかってきた。
「とにかく乗車するなり、泥酔状態の女の先生は男性の肩に手をまわして、さらに片足を男性の股間のあたりに乗せたんです。甘えるようにしがみついている感じでした」
聖職者とは思えぬ痴態であったが、古谷さんは冷静に行先を男性に尋ねて、車を発進させた。
「車を走らせると、後部座席ではさらに激しいことを始めたんです。女の先生はどっかりと男性の股間に跨る形ですね。抱っこちゃんスタイルというんですか?(笑)そんな体勢になって、お尻をハシタなくクネらせ始めたんです」
さすがに危険なので注意しようかと思ったが、女性教師の泥酔ぶりからして、下手に言葉をかけるとトラブルになりかねない。古谷さんはヒヤヒヤしながら、たびたびルームミラーで後部座席を確認していた。
「そのうち、一人で息を荒くしている女の先生が男性の顔に胸を押し付けながら『触って、触ってよ』と訴えだしたんです。こちらからは彼女の背中しか見えないのですが、そのときは、『胸を触って』の意味だと思っていました……」
何度も「お客さん、危ないのでちゃんと座ってください」と言いそうになったが、完全に雌と化して発情している女性教師の放つオーラに圧倒されて、どうしても言えないでいた。
「男性は楽しんでいるというより、困惑していましたね。おそらく女性が先輩で、立場も上といった感じでした。いわゆる逆セクハラですよね」
後に、古谷さんは女性教師が囁いている「触って」は、胸のことではないのを思い知らされることに。
「結局、男性は触ってあげたんでしょうね。女の先生は途端に色っぽい声を漏らし始めて、それこそもどかしそうに跨ったまま、上下にバウンドまでし始めたんです」
そろそろ古谷さんも限界で、冷静だと思われる男性に一言言おうとした。
しかし、時すでに遅し。
「うわっ、ちょっと、ちょっと、ちょっと!」
男性が慌てふためいていた。何事かと思って、ルームミラーを確認した。
「パッと見た時は、何の異変もなかったんです。ちょうど信号待ちになったので、私も後ろを振りむいたんです。そしたら座席がぐっしょりと濡れているんです……。オモラシだと思いましたね。真っ青になりましたよ」
漏らしたのは間違いなく、女性教師だ。現に男性は自分のズボンも濡れたようで、大慌てで、まだ跨っている女性教師をどかそうとしていた。
古谷さんもすぐに「一度、止めますね」と言って、路肩に移動した。
ご自慢の高級本革シートを汚されたことで動揺していたが、それでも、
「オシッコを漏らされたのなら致し方ありません。吐かれるのと同じで、酔ってつい……ということはありますからね」
こう考えていたと言うが、次に女性教師が呟いた言葉を耳にして、堪忍袋の緒が切れた。
「違うの~。誤解しないで。これはオシッコじゃないの~。潮なの~。無味無臭でしょ」
古谷さんは続ける。
「反省しております。のちにわかるのですが、オシッコもゲロも潮も生理現象の一つですから、致し方ないのです。だけどあの時は、女性の潮というものは勝手に出るのでなく、意識して出すものだと思っていたのです。男性の射精のように。だから、つい怒鳴ってしまったんです。『どうして我慢できなかったのですか!?』と……」
今日も古谷さんはお客さんのために、高級本革シートをピカピカに磨いている。